驣衝は有名な華僑の郷、文献の国、および翡翠の集散地でもあれば、省級歴史文化名城でもある。驣衝は西漢の時代にテン越と呼ばれて、大理国の中期に、驣衝府を設立された。地理的な位置が重要なため、歴代では駐屯するように重兵を派遣され、明代ではまた石城を建造されて、「極辺第一城」と呼ばれてきた。
和順古鎮
和順に入ると、江南の水郷に来たかのようになり、青い水が村を回っていって、民国代総理李根源氏が「絶勝小蘇杭」という詩を書いて和順を賞賛した。
明の時代に建てられた和順古鎮は依然として伝統的な文化と建築があり、明清時代の祠、鳥居、古鎮などが古鎮の所々に分布している。
古い火山台地の上では、千棟ものユニックな民居は山や水に依って建てられていて、立ち並んでいて、斑の歳月と豊かな文化の息吹に触れることがすぐにできる。
スカムルとビルマ反日戦争博物館
雲南・ビルマ反日戦争博物館は、中国初の民間資金、民間収蔵で反日戦争をテーマとする博物館である。
展示品は、3000件以上の第二次世界大戦の文物で、中国遠征軍、インド駐在中国軍隊、米英同盟軍隊、民衆反日戦争などについての文物を含んでいる。
騰衝火山国家地質公園
騰衝火山群は、中国で最も若い火山群の1つで、その規模と完全性が全国トップにある。
騰衝火山群は、類型が完全で、規模が広大で、分布が集中的で、また保存が比較的に完全なことによって世界でよく知られていて、「自然的な火山地質博物館」と褒められている。
イチョウ村
イチョウの歴史はイチョウ村の歴史である。江東古イチョウ林は万本もある。黄泥で築かれた土屋は青い瓦を覆われて、ビームに干しトウモロコシがかけてあり、家々の前にイチョウ木が植えてある。
村人の庭の古めかしい木製扉は、百年村落の変遷を反映している。優美なイチョウ木の枝は、この古い村を魅力的に飾っている。
畳水河滝
滝が流れ落ちる崖の頂には、巨石がしゃがんで立ち、亀や鼈のようで、形が様々である。
水口から数十歩の所に石橋が江の上に横たわっていて、太極橋という。この橋は記念的な建築で、その建築技術が地方建築史において重要な地位を持っている。
騰衝温泉
騰衝熱海は極めて豊富な地熱資源があり、ユニック且つ壮観な火山地形および隅々の熱泉によって世界でよく知られている。
騰衝には、数えきれないほどの様々な地熱温泉があり、例えば、高温沸泉、熱泉、温泉、噴水、巨泉、低温炭酸泉などがある。
お勧めの温泉
騰衝熱海
地熱は普通、火山活動の頻繁な地域に形成している。騰衝熱海観光地では、地熱が水蒸気噴出しにつながるだけでなく、地上では多くの熱沸泉、熱水泉が形成されている。観光内で有名な「熱海大型熱水鍋」は、この地質で形成された最も典型的な景観である。「熱海大型熱水鍋」は、熱海観光地内の山腹にあり、直径約3メートルの盆型沸水池で、深さ約1.5メートルである。ここでは年がら年中、97℃の沸水が湧いていて、中心部の水温が102℃まで達して、まるで水が沸騰している鍋のようである。
この鍋に極めて豊富な地熱資源があるため、人々はその周りで地穴を掘ったり、缶で作られた蒸かごを積重ねたりして、地熱蒸気でご飯を炊いたり、卵を蒸したり、サツマイモを煮込んだり、ピーナッツを焼いたりしている。
所在地:雲南省保山市騰衝県清水郷騰衝熱海観光地内
電話:0875 - 513333
チケット:60元/人
営業時間:熱海観光地は8 : 00 - 21 : 00(夏)、8:00 - 20 : 00(冬)とするが、熱海温泉は9 : 00 - 01 : 00とする。
桜花谷
騰衝桜花谷は高黎貢山の西麓、龍川江の西岸にあり、高黎貢山自然保護区に属している。ここでは一年じゅう、霜がなくて、降雨量が十分で、野生桜が一面咲いているので、桜花谷と名づけられているのである。
温泉は澄みきり、水温が42℃で、水質が極めて良い。桜花谷は山門から谷底までの落差が400メートルもあり、高黎貢山と共に典型的な高山峡谷の地形を形成している。山一面にピンク霞のような野桜、黄金色の落葉杉があり、さすがの「一山四季」ね。
所在地:雲南省騰衝県双坂村桜花谷
チケット:90元/人
営業時間:08 : 00~18 : 30
騰衝瑪御谷悦榕荘ホテル
天然地熱資源の優位性を頼りにして、騰衝瑪御谷悦榕荘は真新しい温泉体験を作っている。人々は山水の大自然の懐にいて、大自然と親密に接触し、身、心、霊魂の全面的なリラックスを体験することができる。ホテルの温泉水は、医療価値濃度のあるフッ素化ケイ酸泉で、人体に有益な微量元素を多く含んでいる。
水質が温和で、色や味が薄くて、地元で希な風呂可能、養生可能、飲用可能な温泉の一つである。
所在地:雲南省騰衝県北海郷瑪御谷温泉小鎮
電話:0875 - 8999888
騰衝グルメ
大救鴐
「大救鴐」というフライベイトは、騰衝に起源して、昆明でも有名である。明の滅亡後、李定国、劉文秀などの大西軍は1656年に永暦帝を擁して昆明に来たという。二年後、清軍が3つのルートから雲南に入り、呉三桂が軍隊を率いて昆明に迫ってきて、永歴帝と李、劉二将軍は西へ逃げた。騰衝に来るまで、何度も食糧がなくなって命が危うくなったところが、騰衝の百姓がフライベイトを捧げたおかげで、危険から脱出したという。永暦帝は本当に助かったと嘆いた。従って、フライベイトを「大救鴐」と呼ばれてきたのである。
土鍋
元朝の末に、騰衝へ関所を守るように一人の大臣は派遣された。辺境に来たら、毎日戦士へ送られた食べ物が冷たくなったのを見ると、この大臣はどうしたら、守辺の戦士に温かい食べ物を食べさせることができるかと考え込んだ。彼は地元の職人に土鍋を作って、それによってご飯を煮るようにした。それは、便利になり、手間も省け、遠い所にいても温かい食べ物を食べることができるようになった。それから、土鍋は騰衝の名料理の一つになってきた。
(文章は総合的にネットワークから整理された)
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