墨江県都から北へ行って、20キロのジグザグとした古い道(高速道路はただ9キロ)を経ると、碧渓古鎮に着く。道中の素晴らしい景色は人を酔わせ、その奇妙な山水、漂った雲霧、安らかな村落は、全て深く観光の記憶に根ざすだろう。十分な時間があれば、このような古い道に沿って徒歩または乗車で進むことができる。
碧渓古鎮への途中、道端に芭蕉や青竹が最も早く見え、黙ったまま立っていて、遠い所の池内に2匹の太ったガチョウが自由自在に水を遊んでいる。初春のためで、田に稲苗がまだ植えられていない。山々に囲まれた碧渓古鎮はごたごた忙しくて泥臭そうに見える。それは高速道路の辺に位置しているので、高速道路で行くなら、ただ5分間しかかからない。
碧渓古鎮といったら、大きな由来がある。ここには中華民国時代の「光復英雄」「護国将軍」であった庾恩旸の旧居があるだけでなく、著名な芸能人の庾澄慶の故郷でもある。有名な茶馬古道は、その青煉瓦の間を流れてきたのである。
碧渓古鎮は旧名が碧塑として、明朝恭順州の故地である。初めて明永楽4年(1460年)に造られ、今なおすでに600年近くの歴史がある。史上の碧渓古鎮は滇南重鎮と茶馬古道の重要な宿場で、無数のプーアル茶運送荷馬隊と旅商人は、鎮内の「官馬大道」を通っていた。彼らはここで休憩したり、取引をしたりしていた。交通の便利さの上に、旅商人がひっきりなしに行ったり来たりしていたので、このほとんど名もない小さな村落は嘗て一時的にきわめて盛んになったことがある。
古鎮の建築様式、街路の建築設計は独創性がある。全体の古鎮は十字街路を中心とし、4つの市街地に分かれ、十字街の真ん中の八角亭は古鎮の中心である。民居はほとんど四合天井、四合院、三坊一照壁、走馬転角楼および「一口印」などのスタイルの違った建築芸術精髄を集めている。屋根、軒口、石彫り、戸窓、柵、木彫り、煉瓦彫り、水墨素絵、五色彩絵は美しくてまぶしく、古めかしく、造形が厳粛かつ優美で、明の漢文化の素晴らしさと趣きを十分に表している。
史上において、古鎮は城壁と東西南北の4つの城門もあり、城門上には砲座と射撃穴があり、あたかも物々しい城塞のようであった。噂によると、碧渓古鎮の漢民族祖先は明の大将沐英氏につれて雲南に入った江浙人だったという。彼らは先進的な農耕技術や商売理念をもたらしただけでなく、また、文明に崇み善良に馴染み、文学の風潮が盛んになった。明の政府はここに墨江管轄の恭順州を128年も設立していた。
碧渓古鎮は静かで、歴史のすきまに残った標本のように静かである。空いた街路を歩いていると、道中で腐りそうな花模様彫刻木楼、および瓦軒を覆われたクモの巣を見ることができる。街路に通行人が少なくて、ただ何人かの老人だけが角楼の下でゆったりしてチャットしている。時々、何人かの「驢友(旅行者)」がカメラを持って古い瓦軒と破損した石彫りに向けて撮影している。 道端の旅館は元の様子を残して、凛々しい緑瓦はあれらの遥かな昔事を訴えているようである。
昔ままの小さな鎮は嘗て傑出した人物で有名になったことがある。庾家は明らかに現地の名門で、ここから出世した庾氏三兄弟は、みんな雲南史上で有名な人物であった。三男の恩旸は若い時に李根源、唐継尭と一緒に日本士官学校で軍事を学習して、また、日本で孫中山の同盟会に参加して、さらに雲南の「重九蜂起」を提議、指揮した。その後、滇軍軍長、貴州都督、雲南講武堂校長などを歴任して、雲南貴州軍界で大活躍な人物になり、蔡鍔、唐継尭と名の同じような人物になった。次男の恩錫は嘗て中華民国昆明市市長を務め、出資して「庾家花園」を建てて、また、初めのメカニカルタバコ工場――アジアタバコ公司を創立した。その出品した「重九」タバコは、彼の弟のリードした「重九蜂起」を記念するためであった。長男の恩茂は嘗て富滇銀行の総頭取、雲南財政庁長、参議院議員、赤十字会昆明分会会長を務めたことがある。 三兄弟は嘗て権利が大きくて、名が一時的に高かった。その孫輩の庾澄慶については、もう現代の囁かなことになったのである。
碧渓古鎮は細い米線、火草ババ、紫米ババ、涼粉、豆腐および様々なハニ族風味軽食などがいろいろある。ここの来られれば、ゆっくりと食べてみたらどう。
墨江には観光価値のある所は墨江文廟、泗南江万ムーヘゴ林および毛寨高山草原もある。
(转引自:快乐云南)