Intaro
行かなければならない大理古鎮トップ10

1.大理古城

大理古城は葉楡と略称し、また紫城ともいって、その歴史は唐朝の天宝時代に遡及することができる。南詔王閣邏鳳の築いた羊苴咩城(今の城西の三塔付近)は、その新都とした。古城は明の洪武15年(西暦1382年)に築き始められ、周辺は6キロ、城壁高さは2丈5尺、厚みは2丈。東西南北はそれぞれ門を一つ設置され、みんな城閣があり、四隅に望楼もあった。解放初期に、城壁は全部取り壊された。1982年に、南城門が修築されて、門頭の「大理」という二字は郭沫若氏の書道を集めて書かれたものであった。南城門から城に入ると、1本の北門に直通する復興道は、にぎやかな市街地になっている。街に沿って店舗は立ち並んでいて、大理石、後染などの民族工芸品およびジュエリーを販売している。街・路地間のいくつかの旧宅が、依然として昔の風貌を見せていて、庭園内は花木がまばらに立っていて、鳥の鳴き声が聞こえてきて、屋外は渓流がさらさらと流れている。 「三戸一井戸、一戸幾鉢花」という光景は依然として残っている。

▲大理古城

古城内の東西に伸びている護国路は、「洋人街」と呼ばれている。ここはレストラン、カフェー、喫茶店および工芸品商店が立ち並んでいて、看板、広告がほとんど外国語で書かれて、金髪碧眼の「外国人」を引きつけていて、ここで戻ることを忘れるほど耽けさせ、東方の古韵を探すようにして、ユニックな風景になっている。

1982年2月8日に、大理古城は国務院に中国初陣24歴史文化名城の一つと公表された。

▲大理古城

▲大理古城西洋人街

▲古城人民路の外国人歌手

▲街隅々に見られるグルメ:乳扇

2.喜洲古鎮

喜洲鎮は大理市北部に位置して、西は蒼山に寄り、東は洱海に臨み、隋唐時代に「大厘城」と称され、南詔時代の「十瞼の一つ」で、また映画「五朵金花」の古里で、雲南省著名な歴史文化名鎮と重要な帰国華僑の里の一つでもあり、千年余りの歴史を持つぺー族歴史文化名鎮である。

昔から、洱海西岸ぺー族の政治的、経済的、文化的な重鎮で、悠久なる商売歴史があり、ぺー族商工業発展の揺りかごであった。清朝の光緒時代に、雲南省でよく知られた「喜洲ビジネスギャング」を形成した。「厳、董、尹、柳」という四大家族をはじめとする「八中家族」、「十二小家族」の民族資本家を育てた。

▲喜洲

▲喜洲ババ

3.双廊古鎮

雲南省の省級歴史文化名鎮と「蒼海風光第一鎮」である。境界内では、水と空が青く、群山が緑に囲まれて、輝いている湖水と映り合い、金色の鳥が錦を織るように飛び移り、「双島双曲」と古めかしくて風情の濃厚なぺー族市がお互いに取り囲んで、人と自然が調和した美しい自然画像を構成して、人の居住に最適な小さな村落で、かねてから、「大理風景が蒼山洱海にあり、蒼山洱海の風景が双廊にある」と誉められている。

▲双廊古鎮

▲双廊古鎮のクラシックな撮影場所

4.周城村

周城は「ぺー族後染の里」と褒め称えられ、大理古城北の23キロのところに位置し、下関まで38キロの滇蔵国道の近くにあり、雲南省最大の自然村で、面積が4.7平方キロで、人口が8868人あり、ほとんどぺー族人である。村全体は1500戸あまりのぺー族住民があり、大理最大のぺー族村町で、対外開放のぺー族民俗観光村である。

周城はその境界内の蝴蝶泉によってよく知られているだけではなく、また、ここにペー族の様々な伝統的な習俗が今なお残っていることによって、「ぺー族民俗の生きた化石」と称えられている。石畳がクモの巣のようで、泉がサラサラと曲がった路地通りにそって流れていて、古めかしくて静かである。路地両側の白壁青瓦の建物は、周城ぺー族の伝統的石垣土木構造建築で、「大理に三宝があり、石で壁を積み上げれば、倒れることはない」ということは、このような建築の特徴の描写である。

▲周城村

5.挖色鎮

挖色は、魯川ともいって、洱海東岸に位置し、大理市中東部にあり、北は双廊鎮と接し、南は海東鎮に臨み、東は賓川県鶏足山鎮と隣接して、鶏足山と下関までそれぞれ42キロ、北は麗江まで158キロ。その三面は山に囲まれ、一面は海に臨み、西は屏風のような蒼山に向かって大理古城を遠くから眺め、東は仏教景勝地とする鶏足山に通じている。昔から洱海東岸の美しくて肥沃な土地で、洱海地区で歴史の長いぺー族本土文化発祥地の一つである。

▲挖色風景

▲挖色本主祭り

6. 鳳羽古鎮

大理洱源県南西部の小さな村落で、風景が美しくて、気候が適宜で、観光に適合している。2000年に、省級歴史文化名鎮と並べられた。 2010年に、住宅と都市・農村建設部に授けられた第五陣「中国歴史文化名鎮」という栄誉称号を得た。山紫水明で、物産が豊富で、歴史が悠久で、文化が燦爛して、従来して「文墨の里」という美称がある。「鳳はここに死んで、色々な鳥が弔問に集まってきて、羽が生えて仙人世界へ昇った」によって名付けられたのである。手細工品の鳳羽硯は名声を博している。

▲鳳羽油菜の花海

7.沙渓古鎮

沙渓は中国雲南剣川西南部に位置し、金沙江、瀾滄江、怒江の三江並流自然保護区南東部にあり、大理景勝地と麗江古城の間に位置して、至るところ名が知れ渡っている石宝山がここにある。

沙渓は歴史の悠久なる千年古鎮で、2400年あまり前の春秋戦国時期に遡ることができる。鰲峰山墳墓群、沙渓東側の華叢山銅鉱遺跡は無声で次のように教えてくれている。沙渓は紀元前400年余りに、すでに黒恵江を中心とする青銅製錬製造基地が形成して、沙渓祖先がその時にすでにわりに高い青銅製錬技術を有していたので、雲南青銅文化発祥地の一つになっている。

沙渓古鎮は本当の古鎮で、古めかしくて、今なお最も原始的な建築特色を維持している。それは、古寺、古戲台、古店舗、荷馬宿、古い赤石畳街道、百年古木、古路地、古寨門 ……

▲沙渓古鎮

▲沙渓玉津橋

8.諾鄧古鎮

雲南大理ペー族自治州雲竜県の奥山内に位置している諾鄧は、予想できないほど美しい。諾鄧は製塩工業によって発展してきた村落で、長期にわたって食塩製造よって生活していて、嘗て滇西地区の経済重鎮であった。解放後、海塩が大量に開発されたため、諾鄧は食塩という経済支柱を失って、その時から世間に隠れていて、だんだん人々の記憶から退色してきた。ただし、このような冷遇こそ、諾鄧に依然として清純な姿を維持させるのである。

諾鄧村は満崇山に控え、諾水河に寄り、村口の漢代古塩井が村落の起点のようで、塩井を回って家屋・路地・東屋・建物が重ね重ねと立っていて、さすがに雲南郷土建築博物館と言える。地形の制限によって、家屋が行き違い、石径が曲がっていて、ふっと現われてきた横町は急な階段を映し出し、ふっと突き出してきた門坊はまるで時間の響きのようである。

千年歴史のある諾鄧天然塩井は、諾鄧ハムの独特な美味を育てている。中央テレビ局の撮影制作した『舌の上で味わう中国』というドキュメンタリーには、6分間の雲南諾鄧ハムに関する映像がある。この短い6分間こそ、諾鄧ハムに瞬間に名を高くさせた。

▲諾鄧

▲諾鄧ハム

9. 巍山古城

中国歴史文化名城で、また南詔国の発祥地でもある。元朝に建て始められた古城は、明の時代に煉瓦城に変わって、今になっても、その風貌が依然としてそのままである。 巍山は雲南でトースト制度を最も長く実行していた地区の一つでもあり、その悠久なる歴史に建てられた多くの寺院が、姿の豊かな自然景観とはるか相呼応して、互いに補完し合うようになっている。巍山古城内の街道はアーチ城閣を中心として、標準的な井文字構造レイアウトを呈していて、合わせて街道が25本、路地が18本、全長が14キロある。城内の家屋は基本的に中国式構造を維持しているが、南・北主軸ライン両側の家屋は完全的に明、清の時代の建築様式とスタイルを保存している。家屋の南向きについては、南西に15°ほど偏って、現地と合わせた最適な採光方式で、それによって『四合五天井』の光線不良を補う。2015年1月3日の朝3時頃に、巍山県拱城楼は大火事で焼却されてしまった。

▲巍山古城 

10.金華鎮

金華鎮は大理剣川県北部に位置し、剣川県都の所在地で、1975年に鎮を設立され、剣川県の経済、政治、文化の中心で、214国道の要衝、茶馬古道の重鎮であった。ここでは、毎年、二月八太子縁日が行われている。毎年の旧暦2月8日に金華古城で行われる伝統的なぺー族民俗イベントは今に続いて、もう130年ほどある。その時に、麗江、洱源、鶴慶、蘭坪という4県から、ぺー族群衆はきれいな民族服飾を着て、自発的に古城へ規模広大な太子四門デモ盛会に参加しに集まってきた。

▲金華鎮

トラベルガイド
トラベルガイド
  • Copyright 2015-2016雲南省文化と観光庁 All Rights Reserved
  • 著作権の所有:雲南省文化と観光庁
  • ウェイブ管理:雲南省観光情報センター
  • 技術のサポート:雲南観光情報ネットワーク有限会社
  • 所在地:雲南省昆明市滇池路678号雲南観光ビル 郵便番号:650200
  • クレーム電話番号:96927 0871-64608315
  • お問い合わせ電話番号:0871-12301 政務についてのお問い合わせ:0871-96128
共有リンク:
滇ICP备05000709号