草木が青々と茂っている剣川の石宝山の中、17ヵ所の世界を驚かす素晴らしい石窟が隠れている。これは国外内の歴史学で「南方の敦煌」と呼ばれている石鐘山石窟である。わが国の有名な社会活動者費孝通氏は数回剣川石窟を考察した結果、「北で敦煌壁画があり、南で剣川石窟がある」と感嘆してやまない。1998年、有名な侠客小説家金庸氏は石窟を考察する時、「南天瑰宝」という四つの文字を筆で手に執った。そして、わが国の有名な作家、中国文聨副主席馮驥氏は石窟を考察した後、直ちに「神仏の第一選択地、人間の天堂山」という連句を書いてきた。
石鐘山石窟は「石に彫られたに南詔大理国の歴史」で、哲学、文学、建築、絵画、彫刻を集める芸術文字でありる。1961年敦煌莫高窟、大同の雲岡石窟、洛陽の竜門石窟と大足石窟などと一緒に、国務院が全国第一期重点文物保護単位に選ばれた。
石鐘山石窟は長い文化、歴史、素晴らしい技術で人の心を征服する。石鐘山石窟の工事開始時期は基本に上へ南詔(唐)、下へ大理国(宋)に確定され、現在まで既に1000年以上の歴史を持って、雲南の最初の石窟である。楊慎『雲南山川志』( 函海本)に記載があある:「……( 石鐘山) 鶴慶府城西南の百キロにあり、……蒙閣羅鳳琢観音像が壁に掛けられ、観音山とも呼ばれる。南詔名山は十七個があり、これはその中のひっつである。」趙宗瀚『石宝山小志·伽藍篇』に記載がある:「石金寺は中山石宝の南側である。詔からの農民( 或いは奴隷)がここで猟をする時、各仏の像がとても立派で、大きな岩を見て鐘の形に似て、寺を立てて命名された。唐高宗の時代に建築され、その後修繕したことがあるが、だんだん退廃してきた。」
石鐘山石窟は石鐘寺区の石窟(8窟)、獅子関区の石窟(3窟)、沙登箐区の石窟群(6窟)という三大石窟群があり、合計17窟、彫像200 体であり、山に沿って開削され、とても立派である。200体の彫像で南詔の歴史人物以外、釈迦牟尼、八大明王など仏教の彫像及び人々の日常生活を反映するウッドマン、老者、胡弓弾きミュージシャン、女性性器の彫像などがあり、生き生きとしていて、素朴の民間の生活雰囲気を満ちている。最も価値があるのは石鐘寺石窟群の一号石窟、二号石窟、七号石窟、八号石窟と獅子関区石窟の三号石窟である。石鐘寺石窟の一号石窟は「南詔王異牟尋彫刻図」であり、異牟尋及びその侍従、官吏の服装や外貌、生活用品などが本物みたい、真実に八九世紀南詔王国宮廷の政治生活を描いた。これは南詔の歴史を研究する必要な実物資料である。二号石窟は南詔第五代国王「閣羅鳳視察図」で、窟全体が限りある空間で16個の異なる人物を収容し、とても広くてレイアウトも慎重である。人物の造型も生き生きとしている。ラインも流暢し、細部まで仕上げた。これは石窟雕刻で歴史文物の価値と雕刻芸術の価値が一番高い窟である。獅子関区石窟の三号石窟は「ペルシャ国人」で、頭部が壊されたが、その隣の「ペルシャ国人」の石刻を見ると、西暦七八世紀の時,大理地区が東南アジア、西アジアの各国と友好な関係を結んでいたと分かった。
全ての石窟では、一番簡単、面白い、そして一番異議がある雕刻物は石鐘寺石窟中の第八号石窟——「阿姎白」雕像である。「阿姎白」はぺー族語で女性生殖器の呼び方である。女性生殖器は厳しい仏像、王者像をテーマにする雕像群で展示されているから、国連の関連学者を含め多数の人が注目され、激しい争議も生じた。たくさん由来の噂があった:少数民族地域が崇拜するもの、女性は子供が欲しい信仰物、又は雕刻不十分で自由に作ったもの、更に人間ので生・老・病・死を表現したもの。もっと想像力がある噂はこれが石鐘寺の名前と関係がある。石鐘寺は寺内で鐘の形に似る大きな石で命名された。しかしこの大きな石は鐘みたいだけではなく、男性の生殖器の亀頭にも似る。古代人は陰陽のバランスを追求するため、人工的に女性生殖器を作った。これは同じ問題を違った立場から見た時,各人の見方が一様でない、みんなの意見がまちまちで、意見がまとまらないと言えるだろう。しかし、現在この雕像の人気度は他の石窟の人気をを遥かに超え、無数のペー族婦人や民衆は彫像の前には敬礼、参拝し、安産のことを祈っている。
つまり、石鐘山石窟は唐宋時代の西南地区の各少数民族の歴史上の物質文化と精神文化の残したものとして、西南地域の重要な文化遺産であり、重要な歴史、芸術や科学価値を持っている。これは南詔の宮廷の政治生活の真に迫る描写で、わが我国の仏教芸術の珍貴な宝物で、南詔大理国の対外文化交流の歴史の証拠で、中国雕刻芸術の歴史において特有の位置や意味を持っている。